日本の香り文化から見た丁子風炉Ⅲ

元ポーラ化成工業(株)研究所 佐藤 孝(2020.12.)

 

 前回は「京セラファインセラミック館に陳列されている丁子風炉」という都市圏で所蔵されている美術館、博物館の丁子風炉の話題をお伝えしました。今回は、薩摩藩の藩制に関わる奄美大島(加計呂麻島)、喜界島に現存する丁子風炉を昨年2回に亘って取材した話題をお伝えします。

 

奄美大島(加計呂麻島)、喜界島にあった丁子風炉

 

 2019(平成31・令和元)年に奄美大島に2回、また喜界島と加計呂麻島には2回目の奄美大島来島の際に訪れました。1年の間に2回も訪れ、調査研究ができたことに、幸運を感じています。

 

 奄美大島の歴史は文安4(1447)年、琉球第一尚氏第4代国王尚思達(しょう したつ:1408~1449)王が奄美大島を征服してから、第二尚氏に引継がれ琉球国の支配下にありましたが、慶長14(1609)年に薩摩藩の島津軍が奄美大島へ上陸し、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島までもが次々に攻略されました。更に、沖縄本島に上陸し首里城へ迫りやむなく第二尚氏第7代尚寧 (しょうねい:1589~1620) 王は和睦を申し入れ開城、島津軍は首里城を接収しました。世に言う琉球征伐です。

 

 薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地としました(ただし対外的には琉球の一部としました)。薩摩は住民にサトウキビ(砂糖黍)栽培を奨励しましたが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取が過酷になっていきます。本国(鹿児島)から離れたこの地は薩摩藩の流刑地とされていましたが、送り込まれた罪人の中には知識人もいて、博学の彼等の中には住民に受け入れられた者もありました。記憶に新しいところでは平成30(2018)年に放送された、NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』に見られるように、幕末には西郷隆盛も奄美大島、沖永良部島で流人生活を送っています。このように奄美大島の歴史は波瀾万丈であり、これらの時代背景の中で丁子風炉も18世紀後半から幕末期にかけて伝わったものと推測されます。

 

 今回、調査した薩摩焼の丁子風炉があった奄美大島(元は加計呂麻島の出身)の西家、叶家(かのうけ)、喜界島の泉家、林家の祖先に共通していることは与人(よひと)の位を持っていたこということです。与人という位は島では最高位であることから、何らかの功績がなければ、この位に上り詰めることができないと思われます。叶家に伝わる丁子風炉の箱書きには所有者の名前と與人(与人:与の旧漢字)の文字が書かれていたことからも、与人の位を持った者が丁子風炉を所有したことが推測されます。

 

 嘗て織田信長が戦績のあった者に国一つに匹敵するような価値づけられた茶道具を恩賞として与え、家臣の士気や、ステータスを高める手段として実践したように、薩摩藩は独自の藩政策の中で与人になった者の恩賞として、丁子風炉を下賜したのではないかと推測されます。

 

 現時点ではこの現象を確証づける文献や書物もなく、例数も少ないため奄美大島、加計呂麻島、喜界島も含め、近隣の薩摩藩が支配した近隣地域の島々などにも、調査をしなければなりません。また、170年以上も経過し、なかなか確証するのは難しいですが、このような可能性もあるのでないかと思われるのです。今のところ、目の前にある丁子風炉だけが現存しているのです。

 

瀬戸内町立図書館・郷土館蔵 風炉 (奄美大島 瀬戸内町古仁屋)

西家 薩摩焼 白薩摩 丁子風炉 (左奥・右奥)

白素地黒土象嵌 丁子風炉 (手前)

 

 


 薩摩焼研究の第一人者である鹿児島大学法文学部教授 渡辺芳郎氏も、「与人」の墨書銘がある箱に収められていることは、他の伝来品と同様、近世における地域の有力者に伝来していることを示しており、けっして通常の商品として流通していたものではない可能性が想定できます。と、ご見解を頂きました。

 

 香り文化を求め丁子風炉の調査、研究の旅は来年も続きます。

 

 この文章は令和元 (2020) 年7月5日~8月5日発行の『香料産業新聞』「奄美大島(加計呂麻島)・喜界島に見られる丁子風炉について」に掲載した一部を修正抜粋したものです。